エディートレス物語

 

エディーは、1950年7月3日にティトプエンテと同じ病院で生れ、スパニッシュハーレムでプエルトリコ人の両親に育てられました。

 

プエルトリコでの2年間の滞在のあとニューヨークに戻った彼が、ダンスの虫に取り付かれたのは、ある事件があったからでした。12歳になろうかと言う頃、近所の女の子に淡い恋をしてしまいました。ある日、彼は思い切って彼女を映画に誘うと、彼女の方から『うちへおいでよ』と誘われました。喜びいさんで彼女の家へいった彼が目にしたのは、ソファにすわった背の高いかっこいい男でした。彼女はすまなさそうに『前の彼氏なんだけど、わたしとよりをもどしたいっていってるの』。

 と彼女はその場をとりつくろうように少年に『ラテンダンスってどう踊るか知ってる?』とききました。彼女は、少年がラテンダンスをしってるかどうかしりたかったのです。少年は、大胆にも、レコードがかかるとそこら中飛び跳ねました。もちろん、リードのしかたや、タイミングのとりかたなど知ってるわけがなく、少年のライバルは笑いをかみしめていました。

 ほどなく、彼女はレコードを止め、少年をわきへと追いやり、その男とフロアーに立ち、説明を初めました。『ラテンダンスはこうやって踊るのよ』

 それは、調和のとれた、きれいなうごきと、たくさんの種類のターンのあるものでした。彼等が踊るほどに、少年は落ち込んでいきました。そして彼女は、『彼がよりをもどしたいっていってるの』ともう一度いいました。こうして、少年の淡い恋は無残にも打ち砕かれたのでした。

 少年は、このときから心に決めました。『こんなことは、2度とごめんだ。ダンスを勉強してやる』

 

少年は、ダンスを習うことにとりつかれ、いろんなクラブにいき、いいダンサーにくっついて、見て、まねして、きいてまわりました。そうして、だんだんダンス基礎がわかってきました。そのころのNYでは、10代の少年をいれてくれるクラブは多くなかったのですが、あるクラブが毎日曜日に昼の12時から夜中の12時までやっていたので、15歳の少年は日曜日ごとに昼12時きっかりにクラブにはいり、閉まるまでそこですごしました。どんなに疲れていても、勉強するってきめたから。

 

 8年後、彼は数々のダンスコンテストに出場し、いいダンサーのなかでもベストの1人として評判を得ていました。ある晩エディーがクラブで踊っていると、彼の妹(姉?)が彼をフロアーから連れ出しました。 どうやら幼
い頃彼が恋心を抱いたレニーがカッコ良く踊るダンサーを見て紹介して欲しいと頼んだようでした。 そこで、
エディーの姉は誇らしげに言いました「レニー、弟のエディーを紹介するわ。」 素晴らしいダンサーが誰である
かに気が付いた途端レニーはまるで幽霊を10人見たかのようにその場に凍り付いてしまいました。 一方エディ
ーは彼女と本当に踊りたいと思いました。 彼は感謝の気持ちを伝えたかったのです。「ここまで、自分がやって
これたのは君のお陰なんだ。」 ところが彼女はあっという間に消え失せてしまい結局エディーが彼女を見かけた
のはこれが最後になりました。

基礎を学ぶ

 

その当時ラテンダンスを教えてくれるスタジオはなかったので、上手くなりたいダンサーにとってナイトクラブこそが勉強の場でした。でも、すべてのダンサーが寛大だったわけではありませんでした。自分のステップを見られることさえ嫌うダンサーも沢山いました。彼等にとってステップは自分だけの物だから、学んで欲しくは無かったのです。エディーにとって良かったのは、彼にはステップを見ただけで覚えられる才能があったのです。エディーは、次のようなダンサー達を観察しました。凄く早いファイヤーフットワークでしられるルイマキーニャ、フロアーでのはしたないおふざけをするジェラルド、新参者にとっての良い先生であったボスコネス、そし
て特にマンボジャズダンスで独特のスタイルを持つプロのジャズの先生、ジョージョースミス。

 その当時のプロと言えば、フレディーリオス、チャチャチャエース、トミージョンソン、ただ、これら全ての
プロの中でも)最も大きな影響をエディーに与えたのは、オージー アンド マーゴ。エディーが最初に彼等を
見たとき、凄い幸福感に浸ってしまって一週間も眠れない程でした。エディーは、「俺は、オージーになりたい。
そしてマーゴをさがさなければ」とずっと思っていました。

エディーは、自分のスタイルを得るとすぐ、自分の得た知識を分かち合いたかったので、
ダンスティーチャーとして開業しました。借り物のレコードプレーヤーと友だちとをたずさえて、商売をしました。タイミングの概念や、理論、テクニックなど無く彼のインストラクションは、未発達の助言といえるものでした。

「このアクセントが聞こえるかい?そこで、前に左足を出して、もう1回アクセントを聞いたらブレークバックするんだ」これは、on2として知られるダンスですが、エディーはすぐにそのことに気がつきます。ブレーク オン 2というのは、最初の小節の2番目のビートで左足を前にだし、次の小節の2番目のビートで右足を後ろに出します。

エディーの良き助言者であるティトプエンテによれば、オン2がこれほどポピュラーなのは、リズムセクションやコンガのトゥンバオにあってるからということです。

 

ティト、お願い

 

1975年から1986年にかけて、イースト86丁目のCorso night clubがパラディアム時代の第2世代の拠点となりました。水曜日、金曜日、土曜日、日曜日にプエンテやマチートといった人たちにハーレムステップを見せびらかしてるエディーがいました。最初からプエンテの音楽はエディーに語りかけていました。これは、プエンテがサントスコロンをバンドに迎えて絶好調の頃でした。ダンスコンテストで自分の技量を磨いていたエディーは、沢山の賞を獲得しており、Corsoのオーナーがコンテストに参加せず、ジャッジして欲しいと頼む程でした。

ある日曜の夜、ティトプエンテがステージからおりてきた時、エディーは賛辞を言う為に巨匠に近付きました。ティトは、エディーの才能に気付き「君は踊りの才能がある。単にこのへんで踊ることに時間を費やすより、もっとなにかをしなきゃいけない」エディは、「先生がいないんですよ」と言い返しました。ティトは小声で、「先生なんていらない。自分のアイディアを発展させて、ちょっとしたふりをすればいい。自分で考えてみるんだ」勇気づけられたエディーは、「もしわたしがフリができたら、一緒に仕事ができますか?」「何か作って、みせてくれ」エディーがずっとやりたかったことは、ティトのバンドと一緒に踊ることだったのです。

エディが、将来の奥さんでパートナーとなるマリアとあうまでに8年が過ぎていました。彼の何年にも渡る踊りと観察は独特のテクニックとスタイルを作り上げていました。子供の体育の先生であるマリアは、最初はむしろ怖がっていましたが、すぐにエディの一番いい生徒になり彼が教えた生徒の中で誰よりも早く学んでいきました。「俺がステップをすると彼女はすぐにまねしてよこすんだ」しかし、彼女のスタイルは田舎臭く、ニューヨークの元気さや派手さに欠けていました。可能性を信じてエディは最初の2つの曲、ティトプエンテのEl CayucoとPalladium Days、を振り付けし、マリアを鍛えました。1年も経たない内にマリアはいいステージダンサーになっていました。が、彼女はクラブダンスの経験は多く無かったのでした。だから、エディがマリアを彼の新しいパートナーとしてクラブに紹介した時、友だちは踊れるとは思っていませんでした。2年後、友だちは「エディ彼女はなかなか良いじゃないか」といい、3年後には、エディの一番のパートナーだと認めていました。エディは、今がティトに話す時だと思いました。

El BarrioのChristpher's Cafeでショーをしている時、ティトはエディを見つけました。「君は、Corsoのダンサーだね」エディは、間に合わせの名刺をだし、声を整えて、「パートナーと来て、私が振り付けした2曲を踊ってみても良いですか?もし気に入ってくれたら、あなたと一緒にショーをさせてもらえますか?」といいました。ティトは単刀直入に「正直いって、エディ、俺は今凄く忙しいから、君に電話する時間がないよ」エディの顔は曇りました。「でも、俺に良い考えがある。俺の音楽監督のJimmy Frisauraに紹介してやるよ。Jimmyにちゃんと音楽で何をしたいか、おれたちにどう演奏してもらいたいかを伝えるんだ。次のコンサートでは、君と君のパートナーを目玉にするよ」エディは仰天しました。

1980年、夢がかないました。ティトプエンテとのデビューショーがラテンエキスポの一部として、New York Coloseumで行われました。エディは凄く神経質になっていましたが、パートナーのマリアと共に、準備は万端でした。彼等は最初Cayucoを踊りすぐにPalladium Daysへと移りました。観客は魅了され、ティトは満面の笑みを浮かべていました。

大成功をおさめたのです。

その日以来、ティトの行くところ、エディーも一緒でした。ティトはいつも「君らこの曲はやりたいかい?」と聞いてきました。エディは、ティトと一緒に仕事のできることを、とても光栄に感じていました。最後には、エディは完全にティトのショーの一部になっていました。エディはあるとき聞いてみました。「ティト、俺達はティトプエンテダンサーズって名乗っていいかい?」ティトのダンスチームとして認知されると言う夢は、ティンバレスをたたいているティトの描かれたジャケットとなってあらわれました。そこには、ティトプエンテダンサーズ、と書かれており、ティトも気に入りました。エディには最大の名誉でした。Jimmy Frisauraが次のように打ち明けた時、もっとそれを感じました。「ティトは、そうそう簡単に人とステージを共にしない。彼は君が好きなんだよ」

 

We Want Latin

 

80年代の半ば、ラテンは下火になりハッスルが台頭してき、ラテンダンサーとして仕事をするのは非常に困難になっていました。あるとき、エディはティトが演奏するマディソンスクエアガーデンでのラテンコンサートで踊りたかったのですが、Ralph Mercado(現RMM社長)は「今はラテンの時代じゃない。俺は、Disco Dance Dimensionsをインターミッションのショーに用意してるんだ。君が行く必要はない。観客は求めていないんだよ」。エディはとても傷付いてティトにそのフラストレーションを説明しました。「俺は、金が欲しいんじゃない。ただ、あなたと一緒にステージをやりたいだけなんだ」ティトは請け負いました。「心配するなよ。おれが君たちをTito Puente Dancersとしてだすし、Ralphにも何も心配する必要はないっていっとくよ」

そのコンサートの夜、The Disco Dance Demensionsはお客を楽しませるショーをしました。そのすぐあと、ティトプエンテはPara Los Rumberosを演奏し、観客を興奮の渦へと導きました。それから、彼はPalladium Daysという火の出るような激しいマンボを踊る為、ダンシングデュオをステージに上げました。エディはマリアに前もって注意深く言いました。「君には、血で踊って欲しい」彼等はまるで火のように踊りました。ティトは満面の笑顔でした。ステージわきから見ていたRalph Mercadoも大変喜びました。観客は総立ちになってエディ達に拍手を送り、ハッキリとしたメッセージを送りました。_ラテン音楽にはラテンダンスを見たいのだと。Ralphや他の人たちにも知って欲しい。「ヘイ、これが俺達の欲しい物さ」その夜を境にRalphはショーのたびにエディー
を呼ぶようになりました。彼は90年代になってからは自分自身の素晴らしいダンスチーム「RMMダンサ
ーズ」をステージに上げるようになり、RMMダンサーズは彼のコンサートを官能的なサルサダンスで活気付け
ましたが、引き続きエディーのグループもギグに出演し続けました。

 

The Future

 

80年代、エディとマリアがシーンに登場した時ほんの少しのプロダンサーしかニューヨークにはいませんでした。Ernie and DotieやCha Cha Cha acesを除けば、力強いPalladiumの時代の名残りはほとんどありませんでした。Palladiumダンサー達は、余りにも自分の楽しみに憑かれて次の世代の事を考えてなかったようです。早くから、エディにはビジョンがありました。ラテンダンスを、敬意をもった古典芸術の地点にまで発展させること、未来の世代にダンスや音楽の伝統を伝える必要を認識させること。Mr.Torres は、これを自分の使命とし、そして実現しました。人々はエディを笑いました。「エディ何をしているんだ?そのダンスはもう終わってるぜ」しかしエディは頑固なまでに彼の使命を続けています。

エディは言います。「ラティーノでさえ、ダンスを教わる必要がある」「自分はすばらしいダンサーで、いつも人が立ち止まって俺を見るんだ」、って言ってる人間がエディのクラスに行くと出鼻をくじかれる。才能はプラスにはなるがエディは注意を促す。「ラティーノの中では、俺達はラティーノだからダンスフロアで踊れるって信じてる。俺達はそう生まれついているからだ」これは真実じゃないとエディは言う。

エディトレスが登場するまでは、誰もテクニックや構成についての概念をもっていなかった。彼は数えきれない程のラテンダンスファンを教えてきた。彼のブロンクスでの子供ダンスプログラムは、すでに熟練したプロである10歳の娘ナディアをふくみ、1年を通して約3百人の子供達を教えている。バレイやジャズ、タップ、モダン、アフリカンといった他のダンスフォームとともに、子供達にサルサやマンボを教える独特のアイディアは、ラテンの将来を約束している。エディによるプログラムは、いまマリアに引き継がれている。

 

ニューヨークのサイン

 

ラテンダンスがはじめてNYにきたときには、オープンポジションダンスだった。つまり、二人で向かい合って踊るけれども、今日パートナーワークとして知られる、コンタクトをとりながらの踊り方はなかった。しかし、パラディアム後の第二世代には、沢山のパートナーワークが行われるようになった。パートナーと一緒になって、ターンを作り上げていくことに魅了されているようだ。

パラディアムダンサー達は、ラテンダンスのかっこいいNYスタイルの青写真をひいた。エディーは言う。”NYじゃ、みんなかっこよく着飾り、かっこよくしゃべり、カッコよく派手でいるのが好きだ。特にラティーノはね。ハーレムで生れ育った者は、どういう風に歩くとか、どういう風に喋るとか、どうボディランゲージを使うかってことにある種の態度ってものがある。凄く特徴的だから、もしだれかNYからきたやつが日本で踊ってたら、俺はすぐ分かるよ。”

 

スタイルを作り上げた

 

ブロードウェイミュージカル、アルビンエイリーのワークショップ、アフリカンダンス、フラメンコ・・・・すべてはエディにとってインスピレーションの源だ。見て、真似て、そして頂点にいる人たちを賞賛し、エディは徐々にプロとして成長していった。エディのスタイルは、彼以前の人たちの本当の融合の結果だ。真似をする超人的な能力でもって、彼は、少しのジャズ、少しのバレイ、タップ、モダンを取り入れ、彼独自のスタイルになった。独自の特徴を持つ彼の時代の別のダンサーを観察し、それぞれのスタイルから選んでいった。ジョジョスミスのジャズムーブメントと表現、フレディリオスの典型的なキューバンスタイル、ルイマキーナから少し。踊りでは、折衷スタイルとして知られる。

ボールルームダンスの先生である、ジューンラベルタはエディにとても大きな影響を与えた。彼女はすべての本に載っているボールルームダンスを教えたが、一番好きなのはマンボだった。機会あるごとに、ジューンはエディーをCorsoにつれていった。彼は20代、彼女は、50代後半だった。彼女の知っているすべてとジャズから来た変で難解なちょっとした動きをしながら、ラベルタの引き締まったからだは、コマのように回った。ジューンの指導は、エディの教えると言う経歴にとって決定的な物だった。彼女は、”エディ、あなたが教える為の言葉を学ぶのを手伝ってあげるわ。”彼女は金曜日にボールルームにつれていき警告した。”この人たちは、ちゃんと教育を受けた踊りの熱烈なファンよ。もしあなたがオン2ででなくて、タイミングをキープできなかったら、あるいは、もし彼等があなたに理論についての質問をして答えられなかったら、あなたに対してそのことを使うでしょう。”はたして、彼がファンシーフットワークをやったあと、恐ろしい質問を聞いた。”君はオン2でブレークするのかい?”当時、クラーベや踊りの理論的な点でエディは

からかいの対象にならなかった。エディにとって幸運なことは、彼はずっとオン2で踊っていたが、ただ彼はそのことを知らなかったのだ。ジューンは続けて”あなたをダンサーとして、先生として、振付師として更に高めていくわ。あなたはこの知識で、もっと先へ行くでしょうね。”しかし彼が本当に学ぶまでには、15年を必要とした。

ありがとう、ジューンラベルタ。エディのステップには全て名前がある。今日、118のステップを書いているエディーのクラス概要は、ボールルームの教育を受けたダンスの伝統を支持する物だ。このステップやターンのレパートリーはその名前と共に、生徒に理論的な枠組みを与えている。

いつの時もすべてのターンは、彼自身の奥底、からだで表現できる最も個人的な物の中にある。それから、エディトレスはそれを世界と分かち合う。”俺は、楽しい時も嫌な時もずっと踊ってきた。これは、君が飛び上がって、セリアのようにAzucarと叫びたい時に踊る踊りなのさ。そうして、頭をふって肩を動かしたくなったらもう大丈夫。It's cool”

 

 

我々は、ティトプエンテが彼のほとんどのコンサートでサルサを踊らせてくれ、我々が愛すべきラテンダンサー達を出演させる時、ダンスの重要性についてちょっとしたスピーチをしてくれたことに対して感謝しなければならない。

エディトレスの業績は、ティトプエンテとの共同作業やルベンブラデス、オルケスタデラルス、ティトニエヴェス、ホセアルベルト、デビッドバーンといったひとたちのミュ−ジックビデオの振り付け、ダンスカンパニーの設立、大統領ジョ−ジブッシュの前で踊ったこと、カーネギーホール、アポロシアター、マディソンスクエアガ−デンでのパフォーマンスを含む。

(Latin Beat Magazine "Eddie Torres Salsa Dancing Goes Classic" by Mary Kentより意訳 by Mambo Machine)

 


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